民芸の風が吹き抜ける 倉敷緞通

民芸の風が吹き抜ける 倉敷緞通

倉敷緞通

 

時代に翻弄された民芸。一度は生産が中止された織物を復興させ、現代に再生しつづける職人がいる。瀧山雄一さん。飄々とした空気をまとって、黙々と緞通を織り続けている。

 

 


 

「今朝も実家の百姓をやってきたから。こっちの作業は1日4時間が限界かな」。そう笑いながら、緞通の原料であるイ草の加工をやって見せてくれた。3、4本のイ草を手にとって紙テープを巻きつけていく。イ草は熊本の八代、紙テープは四国産。ディスク上に巻かれた紙テープは1,2日かけてイ草と一体となり、緯糸になる。1つの紙テープディスクから約一週間の製織作業で使う量の緯ができる。

 

 

糸といっても撚りは殆どかかってなくて、ハリのある曲線を描いて積み上がっている。この作業に使う治具は瀧山さん作。以前、倉敷緞通が盛んに生産されていた昭和4-50年代の機械にはベアリングもなく、紙テープの規格も違うものだった。そこから改良を重ねて新しく作り直したものが現在使われている。

 

 

倉敷緞通は栄枯盛衰の道を辿り、現代に再生された歴史をもつ。

明治時代に倉敷周辺の特産であったイ草を使って作られた「花ござ」。アメリカなどに輸出され、当時の輸出年額が一千万を上回るほどの産業だった。しかし製造品質の管理や納期、関税などの問題によって販売は悪化。その頃、花ござ製造に従事する発明家、矢吹貫一郎は「金波織」という、西洋人の趣向と和洋折衷の日本建築にあった意匠の織物を考案。時の倉敷地方の文化グループによって浜田庄司と柳宗悦に紹介され、芹沢銈介による図案やバリエーションの指導を受け、「倉敷緞通」という名前が付けられた。それから特産品として国内外に広がったが、太平洋戦争により生産停止。また戦後最盛期の昭和3-40年代には月間三百畳をも超える勢いで生産されたが、原材料の高沸や物品税、職人の高齢化という問題を前に生産を終える。そして平成4年。伝統産業復興研究会が発足し、翌年平成5年に生産が再開された。

 

 

「その頃はバブル全盛期で、いろんな人が、行政もお金を出し合って新規産業創出に動き出した。元々使われていた機も残っていたけれど、持っている人が譲ってくれなかった。生産終了後に手織り緞通を個人で続けていた人もいて。その人は製造時の秘密を持ち出しているから、その機を見に行ったら慌てて丸ごと売ってくれて。でもその方法がひどかったので、結局作り直して」。職人の言葉で語られる歴史には、温度や湿度や匂いまで感じられる気がする。

 

 

倉敷緞通は平織りを応用した構造になっている。表面と裏面では見える素材が違なり、イ草と紙テープを合わせた緯は裏面に。表面は、「リング糸」という自家製の糸が使われている。芯となる糸にリングを形成する糸を巻きつけ、更に抑えになる細い糸を逆回転で巻きつけて完成。市販されているものよりリングが密に形成されているのが特徴。このリング糸製造機も改良に改良を重ねて現在のスタイルに落ち着いている。生産ペースは速くはない。けれどそれを継続していくためのローテクな工夫が随所に凝らしてある。このリング糸、撚りムラや輪っかの大小は製品になると気にならない。

 

 

 

織り工程は別棟の、元イ草小屋だった工房で行われていた。片引きの自作織機で、イ草、リング糸、イ草、リング糸…と順番にスイッチを押しては筬を打ち込む。以前は滑車の原理を使ってパートのおばさんに竹の竿で緯をいれてもらっていた。昔の生産現場では夫婦じゃないと織れないと言われた緯打ちを自動化。糸のカットなど全体の仕組みを整えるにも10年。瀧山さんのじっくりと物事を為す力。静かに淡々と、急がない。経糸は二重経、組織は平織りの変形。普通は偶数、二本の踏み板に加えてバネつきの踏み板があって、それを踏んで下げる。ゆるんで波打った状態の経糸と固定されピンと張った経糸の間にまっすぐ糸を入れる。そして筬を打ち込む。

 

 

整経の治具も、もちろん瀧山さん製。60本立てにした経糸を長さ80メートルと900本の束にする作業。120本をまわり整経で7.5回分、それで900本になる。この方法、与謝野チームの職人たちもその仕組みを理解するのに、ちょっとの間がかかった。次に、ドラムに巻きつけて重りをつけて竹製の筬に通す。450の隙間に糸入れ、そして重りのテンションで引っ張っている。

 

 

この方法を確立するまでに、少しの変更で失敗した大量の糸を燃やしてしまったことも。当時はデフレだったと振り返る瀧山さん。今は材料代が上がっていると。仕上げの縫製も自分で行う。製造業が盛んな地域柄、内職をしていた家庭が多く、「祖母と母が縫製をしている姿を見ていて、ミシンにも馴染みがあって。何とかなるかなと」。完成した緞通の精度は言うまでもない。

 

 

生産ペースは年間80メートル。2-3年前は半年で80メートルと一番たくさん織っていたそう。職人のライフステージと民芸をとりまく状況と、移り変わっていく日々。現在の販売店は個人的なつながりがあるお店を中心に、愛媛や広島に5、6店舗。「問い合わせもあって、生産量を増やそうと思えば増やせるけれど、今後のネックは後継者。教えてあげられるけれど、食べさせてはあげられない。時期を過ぎてしまった」。

 

 

「23歳のときに始めて最初の10年は暇で、でもそれなりにハケて。35歳くらいから45歳頃まで死ぬほど忙しくて、そこで人が養えていたらよかった。38歳の頃には後継者のことを考えたけど、探す暇も人を雇うノウハウもなくて、クタクタで。自分で完結させるようにやってきて。まあ、民芸の世界はどこもそんな感じだと思う。ガラス、焼きもの、和紙。倉敷の民芸は弟子というより職人を雇っていたから、息子の代で職人が散り散りになるとなかなか次が雇えないということが、どこの工房でもあった」。

 

 

ものづくりで世代を引き継ぐ、家業を続けることのむずかしさ。それは私には知り得ない背景。ここ与謝野で生粋の機屋と仲間になって、彼らの家業についての思いや考えに触れるのが、今とても面白い。

 

 

岡山視察の名所として立ち寄った美観地区。そこにも、時代の変遷を見てきた瀧山さんの言葉が注がれる。「美観地区も、ずいぶんと変わった。昔はみんな自分の土地と建物で、自分で買い付けたものの商売をやっていた。15年くらいかけて無電柱化して、ものすごくきれいになって。観光客も増えて、土地を持つ人は商売人に貸すようになって、扱っている商品も変わって、ここへの電話もなくなった。ちょうど生産ペースが落ちていたからよかったけど。普通に生活していた場所が、今や観光地になっている。船と美術館の周辺だけが定番だったのに、倉敷が変わってしまった」。

 

 

確かに、日本の観光地はどこへ行っても軒並み同じような商品を並べている店が多い。どこで作られたか、ただ土地の名前が印刷されただけのグッズが並び、土地の匂いが薄らいでいく。都市が田舎に移植されていく感覚に襲われる。倉敷緞通の工房周辺にはイ草倉庫が点々と残っていて、イ草の生産が盛んだった土地を感じることができた。工房から見える小さな小屋に、「あれもイ草倉庫、あっちも…」と瀧山さんが教えてくれる。吹き抜ける初夏の風に、簾越しに光る水路。

 

 

「この辺りもみんなイ草を植えていた。夏はイ草の相場が落ちる時期。米価いくらの時代にイ草は相場で現金収入ができた。お金のない人はすぐに売って、金持ちは倉庫で寝かせて。今、日本のイ草生産の状況はどん底。八代のイ草はモノも落ち着いていて、昔は軽トラで持ってきてくれた。日に焼けるからってビニール袋にいれてあって、後から開けてみるとゴミが混ざっている状態のものがあったりして」。馴染みのない材料の話は、興味がつきない。日本古来の植物、材料、素材。それなのに、私たちはその話題に触れることがないと自覚させられる。

 

 

瀧山さんが現在の工房を建てたのは10年前。創業は水島工業地帯のコンビナートで工務店の土地にプレハブを建ててもらい1年、その後隣の事務所に2年ほど間借り。そこから更に織機のあったところに移って10年、次に現在の場所へ。緞通のたどった道と同じく、瀧山さんの道も厳しい。次世代に残るかどうかは未だ見えない状況だけれど、何度も復活を遂げてきた倉敷緞通の数奇な運命、その未来は明るいと信じたい。

 

 

工房前で集合写真を撮ってからも職人トークが楽しすぎて、なかなか離れられなかった私たち。織機の構造と整経と、ちょっとした作り方と見え方の違いだけで、根っからの職人さんでも分からなくなったりすることが不思議。織物という共通言語をもって、知らない土地へ行こう。その土地の織物と、職人に会おう。私たちの旅は続く。

 


 

倉敷緞通

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