ハタオリマチノキオク
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バスツアー翌日の10月7日と8日は、富士吉田市が主催する「ハタオリマチフェスティバル」へ。昭和の面影を残す建物、街灯、アーチ看板と富士山がトレードマークの町で「これからの産地はどうあるべきなのか」という問いへの手がかりを探して歩き回った。
メイン会場のひとつ「まるさくたなべ」は、昔どこの町にでもあったようなショッピングセンター。そこに織物工場の生地の展示販売に加えて、国内のファクトリーブランド、個人の作家が集まった合同マーケット「ハタオリ工場祭」が出現し、テキスタイルファンで大にぎわい。
古道具や雑貨店、飲食店が集まった屋外露天市「吉田のまちの道具市」では、地域の親子連れも、おじいちゃんおばあちゃんも、都市部から来た若者も、秋の一日をのんびり過ごしていた。「どこどこの機場はこのイベントにも出しとるらしいで、がんばってはるなあ」という声が聞こえて、その隣では子どもが地元のお母さん特製のコンニャクにかぶりついて。そのまた隣のテーブルにはとびきりお洒落なスープを食べるカップルが座って…余談だが、たくさんのパン屋さんが並ぶ幸せな光景に、自他共に認めるブレッドギーク(パンおたく)である私のテンションも跳ね上がった。
商店街の一角では、株式会社糸編の宮浦晋哉さんによる「産地の学校・青空教室」が開校。機屋さん、紋紙屋さん、テキスタイルデザイナー、整経屋さんと多彩な顔ぶれのゲストを招いての授業に参加した。
1時間目の「新しい機屋・新しいお針子 WATANABE TEXTILE・渡辺竜康×流しの洋裁人・原田陽子」は、全国を旅しながらセミオーダーメイドの洋服を縫いあげる陽子さんと、渡邊織物の竜康さんがコラボレーションしている洋服のお話。
大学で建築を学び、設計事務所で2年間働いた後、家業である機屋に入った竜康さん。写真家としても活動し、機屋仲間の製品撮影も手がけていた。そのお礼として譲り受けたシルクの糸を使い、夜中にこっそり織った生地は「これまで写真で表現していた自分を、織物でも表現できるようになるかもしれない」と、それまでOEMの裏地を織るだけだった機屋としての竜康さんを変えた。裏地用に最適化された経糸をベースに、緯勝ちの組織を組んで異素材を織り込む。シルク、ウール、カシミア…糸からインスピレーションを受けて、オリジナルプロダクトに直結する生地を織り始める。そして今回、機屋と洋裁人がお互いの感性に期待して、ゆるやかなパスを出し合い、テキスタイルと洋服が生まれた。これは、欲しくならないはずがない。授業の後に受注会場へ移動し、一目惚れした生地からオーダー。会場では、竜康さんの写真展も開催されていた。富士五湖周辺の美しい風景を切り取った写真は、シンプルな展示台に彼が尊敬する建築家の作品集と一緒に並べられていた。建築家の名前はピーター・ズントー。私も過去にスイスやノルウェーにある作品を巡ったことがある。「いつか、その建築家に届く生地を織りたい」と語る人が織った生地をまとう、特別なワンピース。
2時間目は「徹底解剖!ドビー織機とジャカード織機」。紋紙作成を担う有限会社テキスタイルフジの渡辺秋穂さん、株式会社オヤマダの小山田直司さんを講師に、なんと織機から下ろした状態のドビーとジャカードも会場にお目見え。「紋紙とはなんぞや?」から始まり、打ち込みの密度やリピート柄の大きさによって紋紙枚数が変わること、それが制作代金に反映されることが説明される。電子ジャカードへの切り替えも進むが、時々エラーが発生したり、かえって応用がきかない場面もあるという。そして電子ジャカードでは織れない柄もあるというから驚く。古い織機のメンテナンスが課題であるのと同じく、紋紙の加工をする機械の製造も終了してなんとか維持している状態。機屋が生地を織り、準備工程にお金を落とす流れが止まると廃業になってしまう「下職」という構造の課題も語られた。厳しい状況だけれど、トークの雰囲気は明るかった。自分たちが頑張って維持するという思いの表れだろうか。
3時間目は「テキスタイルデザイナーの仕事 宮下織物・宮下珠樹」。授業の前に、別の場所で開かれていた展示を見に行った。蔵の中に展示されたテキスタイルとドレスは、長くたっぷりとした量感のファーが全面に波打っていたり、玉虫色の変形プリーツが艶かしい輝きを放っていたり、エッジの効いたカット加工が陰影のリズムを刻んでいたりと、とにかく一目見たら忘れられない生地。その数々のテキスタイルをデザイン・設計された珠樹さんのトーク。生地の完成までにいくつもの工程を経ること、富士吉田産地の特徴である細番手高密度の経糸は設計も難しいこと、とあるミュージシャンが最後のコンサートでまとった衣装の生地を探し尋ねてきた人がいたこと。プロダクトとしてのテキスタイルと、自己表現としてのテキスタイル、その境界を軽やかに超えて創作するお話に引き込まれた。
翌日に参加した4時間目の授業は「整経屋の1日 マルヒデ整経・桑原一憲」。このルポでも、準備工程の最終仕上げとしてその重要性を取上げてきた「整経」。その緻密な仕事のお話。何千本とセットされた糸を巻きつける収束盤のことを、富士吉田では「男巻(おまき)」や「緒巻(おまき)」と呼ぶそうだ。丹後でよく聞くのは「芯棒」。西脇では「ビーム」と呼んでいたし、他の産地ではまた違うのだろうか。
25歳のころ、家業を継ぎに戻った一憲さん。そのころから、どうやって整経の品質を高めていくかご家族で話し合ってきたという。「分業によって完成する織物業界では、完成品にエラーが見つかった時に整経が原因とされることが少なくない」と一憲さん。「本当の原因は何だったのか分からないことも多い」とも言う。そのリスクを減らし、同業者の一歩先に出ようと地道な取り組みを始める。エラーのあった現場を家族皆で見に行く。賃機に外注していた「繰り返し」の作業を難しいものから自社でやろうと変える。人はどうしても間違いをしてしまう、だからこそ目の届くところで、自分たちが確認できるように。鉄製のクモから木製のクモに変える。鉄はその重みの反動で糸が伸びたり、繰り返しでひっかかったり切れたりすることがあるから。他にも加熱しながら整経したり、いろんなことを試してきた。以前は、「クレームやエラーの連絡だったから」電話が鳴るのが怖かったが、やがて「良いものが出来たよ」「織りやすかったよ」という反応に変わっていく。幾つものアップデートを積み重ね「精度に自信があるので価格設定は高めです。営業に出ると価格交渉されるから。下から強くならないと、工賃もあがらない」と語る、現在のマルヒデ整経が出来上がる。象徴的だったお話は、お母様が「綛(かせ)の大きさに違和感がある」と言った糸を調べたところ、同じロットなのに顕微鏡レベルで太さが違ったという。まさしく職人の感覚。今後のことは厳しい状況だというが、一憲さんは笑っていた。「ほかにバイトをしてでも整経しますよ」。
5時間目、6時間目の授業は、産地の工場をまわるために欠席。時間が足りないハタフェス。青空教室のお隣では、地域の高校生もワークショップを開催。機屋さんから出るレピア織機の耳をつかった「もふもふアクセサリー作り」でハタフェスを元気に盛り上げていた。バスツアーの展示会で出会った堀田ふみさんの「Aneqdot by Fumi Hotta」や、2年前に移住してオリジナル染色作品を手がけている佃あゆみさんの「tuku wa textile:」、自作ドビー織機でプロダクトを生み出す佐藤リョウヘイさんの「rumbe dobby」など、この地で活動する作り手たちとも会話を交わした。いろんな経歴をもった人が、産地でものづくりをしている。
ハタフェスの私的ハイライトは「郡内織物工場オープンファクトリー」。
最初に尋ねたのは「有限会社テンジン」。シャトル織機をつかったリネン生地の製造を手がけている。元々はネクタイの生地を織っていたが、ヨーロッパのアンティークリネンに出会い、長い年月をかけて風合いが変化すること、愛着をもって使われる魅力に可能性を見出したと、小林新司代表取締役が話してくれた。糸の仕入れから工程のトライアンドエラーまでいくつもの壁を乗り越えて、ファクトリーブランド「ALDIN(アルディン)」を立ち上げ、最終製品までの一貫したものづくり体制を築き、今では製造が予約待ちという状態に。同じく富士吉田にある「R&D.M.Co-(オールドマンズテーラー)」というアパレルを中心としたライフスタイルブランドにも生地を供給。ともに国産リネンの品質と技術を生かしたプロダクトを産み出している。
次に訪れたのは「山梨県織物整理株式会社」。機屋が織り上げた生地の洗い、整理、特殊加工などの仕上げを担う。工場を案内してくれたのは小杉真博さん。運び込まれた反物が巨大なローラーから引き出されて、水槽で糊を落として、ウールの生地をこれまた巨大なタンブラーで縮絨させたり、その反対に熱でシワをとったり。とにかく巨大な設備が並び、機械への出し入れや移動は人力。水分を含んで何百キロにもなった織物を1日何十回も移動させる超重労働の現場。真博さんは入社数ヶ月で10キロ以上痩せたという。先代が開発した「ニードルパンチ」の機械や塩類でコットンを収縮させる「塩縮」の技術など、巨大な機械の仕事に繊細な手仕事が加わって、ハイブランドから指名の仕事も受けている。私も作り手であることを話すと、真博さんのテンションも上がって、たくさんのサンプルを見せてくれてお話も止まらない。渡辺竜康さんの生地もここで加工されたと聞いて、さらに愛着の沸くワンピースになった。最後にはお勧めの居酒屋さんまで紹介していただき、名物の馬刺しを堪能。
翌朝に向かったのは「株式会社前田源商店」。オーガニックコットンを主軸とした生地の設計から製品化、流通、販売を行っている。代表取締役 前田市郎さんのお話はテキスタイルを超えた「現代に必要なものづくりの芯」に広がる。「自社に織機をもたないから、全国がうちの産地だと思っている」という一言から始まり「うちは設備をもたない機屋。設備をもっていると、それを生かす作り方になる。持っていないからこそ、幅広い組み合わせがいろいろと考えられて、ネットワークが強みになる。深みや引き出しをたくさん持つこと、最終的には、ひょっとしたら織物じゃなくてもよくなるかもしれない。人間性や生き方そのものがものづくりになる」。これはバスで家安さんが語っていた言葉と同じだ。織機をもたなくても、加工や外注が他産地であっても、糸の手配や検反は必ず自社で行う。そして、取引先との会話は必ず現場を訪れてという信条がある。最終製品はインテリアから洋服、生活雑貨と幅広く、その価格決定や販売先の選定まで管理ができていること。淡々と話す前田さんを前に、ノウハウの集大成の山を見た気がした。
午後からは「株式会社槙田商店」へ。前日の「ヤマナシ産地テキスタイルエキシビションVol.7」でもお話を伺った槙田洋一さんを訪ねて。織地から縫製、組み立てまで産地内で仕上げる傘やレインアイテム、高品質の服地を生み出している。傘の柄は表情豊かに絵画のように織り込まれて、裏地付きのシリーズや、まるで映画の中に出てきそうなエレガントなシルエットのデザインも。それを可能にするのは幅140センチで二釜という機拵えや、現在は服地に特化している最大幅180センチというジャカード織機。紋紙制作も行う企画部には20代から60代まで5人の社員が所属し、うち4人は地元からの雇用。手を動かすことやグラフィックデザインが得意という人が産地でものづくりを職にする、理想的な環境がここにあった。もう一人は東京造形大学出身の井上美里さん。産地発のものづくりに惹かれて移住し、新しい感覚の製品作りに取り組む。彼女がデザインした「菜 sai」というシリーズの傘は野菜をモチーフに、黄色いポンポンがとうもろこしに見立てられていたり、縮絨が野菜のフリルを表現していたりと糸の特性や織技術を生かした楽しいテクスチャーになっている。
最後に訪れたのは「有限会社田辺織物」。座布団生地の製造から小売りまで取り回すのは、代表取締役の田辺丈人さん。ジャカード織機で織り上げられる座布団は、家庭用から社寺仏閣まで幅広く使われている。最近では、オンラインでの小売り販売も展開。「これだけ景気が悪くなると問屋も強く言えないから」と話す丈人さん。東京造形大との共同プロジェクトで作り上げた、現代的な干支柄の座布団や電子基板柄のパソコンケースといったアイテムも開発している。「富士吉田は機屋さん同士、昔に比べて仲がよくなった。お互いに助け合わないと機が織れなくなるし、情報を囲っている場合じゃない。機屋が集まると“織機を直す知識”が集まるし、困ったことがあれば連絡しあう。機料品店が声をかけて懇親会を開いて、どうやってメンテナンスしていくか話し合ったことも」と、産地内部から開かれていった様子を伺う。ハタフェスや毎月のオープンファクトリーで知名度が高まりつつある富士吉田の流れを「ゆっくり盛り上がるといい」と見つめていた。
旅の最後は葭之池(よしのいけ)温泉へ。頭の中に収まりきらない情報がゆっくりと染み込んでいく。富士吉田が産地の名を発信し始めて約10年だと聞いた。築き上げてきた「これまで」と目の前にある「いま」、そして見据える「これから」。悩み考えて行動してきた、その足跡が富士の裾野に刻まれている。どこまで登ったか、雲に隠れた富士山は答えてくれない。
機場を持たない私は、産地で何ができるのだろう。ルポルタージュでの発信は言葉の先に何を得て、駆け抜ける日々は何かに結実するのだろうか。いまあるものは、丹後が好きという気持ちだけだ。機音、仲間、友達、風景、気候、暮らし、丸ごと愛したいものたち。探し続けよう、ひときれの可能性を。
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